リンク
SADI トップページ
北欧建築・デザイン協会 カテゴリ
以前の記事
2024年 08月 2024年 05月 2024年 02月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 07月 2023年 04月 2022年 12月 2022年 09月 2022年 06月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 09月 2021年 07月 2021年 02月 2020年 08月 2020年 02月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 02月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 09月 2018年 07月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 02月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 09月 2017年 07月 2017年 05月 2017年 03月 2017年 02月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 05月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 11月 2013年 06月 2013年 04月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 03月 2011年 02月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 07月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2012年 05月 31日
SADI定例講演会 「フィンランドの木造教会|17世紀・18世紀における箱柱式教会の構法と歴史」 講師:竹内 晧(あきら) 氏 (建築家・日本建築学会会員) 日時:2012年5月18日(金) 18:30~21:00 会場:東京大学 弥生講堂アネックス 講義室 ■はじめに 大型連休が過ぎ、新緑が息吹を伝える頃になると、新入生の面持ちにも余裕の表情が窺え始めます。そんな若葉の季節の弥生・本郷キャンパスは五月祭に向けて、ひとしお活気が漲る時期でもあります。この全国屈指の学祭では多彩な企画が催され、その時々で話題となりますが、なかんずく秀逸な研究展示が行われることが関心の高さの理由でもあり、向学の意欲と研究の質を示す意味で伝統ともなっています。 さて、そんな5月のSADI定例講演は、青春真っただ中の向こうを張って、淡々と秘めたる情熱のもとに研究を積み重ねてこられた竹内 晧氏にお願いして、その歩みと成果を語って頂きました。同氏は、現役大学生に比肩する志しと、専従の大学研究者に伍しても引けを取らない研究態度とで、自らの研究テーマを在野にて追求してこられた建築家であり研究者です。その実績は、開演に先立つ長谷川理事(当協会)の挨拶にもあったとおり、フィンランドの古い教会のことなら‘タケウチ’に訊けという言い回しがある位、その道での敬意と評価とが示されています。 ■今日の研究成果に至る活動のきっかけ 本題に入る前に竹内先生とフィンランドとの係わり、ひいては木造教会との出会いついて触れておきたいと思います。それは遡ること30年前、フィンランド出身の牧師さんとの邂逅から始ります。牧師さんは1970年代にルター派教会のミッションにより建てられた都内の教会に本国から赴任してきた人物でした。 1985年の夏、この牧師さんの帰省に同道する好機から、生家でのホームステイに恵まれた竹内先生は、質素ながらも暮らしに根差した美しい建物の数々をフィンランドで目にすることになります。とりわけ素朴な古い木造教会に惹かれ、心を奪われます。当時、建築技術者として大手ディペロッパーの設計部門に勤務していた先生は、鉄やコンクリート、ガラスといった材料を用い国内各所にオフィス用の高層ビルを設計・監理する仕事に携わっていましたが、この渡航で、かの地の風土・歴史に育まれ、人々の営みと共に在る古い木造建築への興味を著しく喚起されます。それはやがてフィンランドの古い建物、なかでも木造教会を研究してみたいという強い欲求へと繋がっていくことになります。 その後 地道な研究を続け11年が過ぎた1996年、原語(フィンランド語)修得を叶え、さらなる研究活動を深化させるため早期退職を選択。単身フィンランドに渡り、57歳でトゥルク大学(南西部の街)の外国人向け指導コースに入学します。それから3年間、欧州各国からの20代30代の留学生に混じって励み単位を取得。1999年よりタンペレ工科大学の大学院に移って念願の木造建築、木造教会の現地調査と研究をスタートさせることになります。 当地に渡り2009年8月に帰国するまでの13年間、その研究生活の過程には計り知れないご苦労もあったと拝察しますが、かの地で勉学・調査研究に勤しんだ日々を追体験し、そこに思いを重ねるとき、私たちは立場を問わず、研究者としての竹内先生の勇気と真摯な態度に心から尊敬の念を抱かずにはいられません。なお、2008年にはその研究の成果によって東京大学で博士号を取得されました。 ■講演内容 周知のとおり針葉樹林帯に位置するフィンランドは、豊富な木材資源に恵まれ、古くから生活のいたるところで「木」の文化が醸成されたと共に、その建築技術の上で他の地域では見られない固有のアイディアが発達してきました。しかしそのことはあまり日本では知られていません。 本講演では、木造でありながら石造教会に見られるような建築上の大空間を可能にした「箱柱式」というユニークなフィンランド固有の技術に着目しながら、17世紀・18世紀における木造教会の構法と歴史をテーマにお話しをお願いしました。 今回の講演レポートは文面の都合と技術的な点に対する文章表現の限界から、北欧圏へのキリスト教の伝播を概観し、スウェーデン史を織り交ぜながら、フィンランドの風土のなかで工匠たちがその手法を生み出すに至った背景には、一体どのような要因があったのかを、歴史との関係を軸に綴ることを専らとしました。技術面への言及が不十分である点は、ぜひ竹内晧先生の著書「フィンランドの木造教会(リトン社発行)」をお読みくださいますよう願いあげます。 西海岸地域に残る世界に類のない木造建築の存在: 現地にて木造の研究を始めた当初、竹内先生はその切り口をどうするかを模索するなかで、1959年 ヘルシンキ工科大学のN.E.ヴィックベルグ教授によって上梓された「フィンランドの建築芸術」という一冊の本を目にします。そこには「17世紀・18世紀の西海岸地域(ボスニア湾地域)には世界でも類を見ない非常にユニークなアイディアによって建てられた木造の建物が存在し、そこにはフィンランド固有の手法がある」と説かれていました。これを糸口に徹底した現地調査と実測しての図面づくりによる作業を開始、嚆矢となって研究テーマに分け入って行くことになります。特に屋根裏に上がっての調査作業は構法・構造を知るのに極めて効果があり、当時の工匠たちの考えを理解するのに役立ったと語ります。 キリスト教の伝播と初期の木造教会: フィンランドがヨーロッパ文化圏に成っていくのはキリスト教の影響によるところが理由ですが、北欧圏へのカトリック布教の使命を担ったのは、カール大帝の時にドイツ北部ブレーメンに設置された大司教座(聖パトリック大聖堂)で、9世紀半頃にヴァイキングの交易拠点として栄華を誇ったビョルケー島はビルカ(現在 世界遺産登録)での活動から端緒がひらかれます。1000年前後にはスカンジナビア全域に広がったと推測され、12世紀初にはルンド(スウェーデン南部の街。当時はデンマーク領)に北欧初の大司教座が置かれます。やがてスウェーデン南部からもたらされたカトリック教会によってトゥルクを中心とするフィンランド南西部地域に教会がつくられて行きます。【図1参照】 【図1】 この最も布教初期(1100年代)に建てられた教会は木造で古くからの丸太組積造農家(丸太を井桁上に積み上げていく構法 *注1)の建方に近いものでした。建物全体は長方形(15.0m×11.5m 東西に長い)をしており、長手の向きの(東側)正面に聖壇が据えられ、側面の左右にはそれぞれ南側に武器庫、北側に牧師室が振り分けて配置されました。武器庫の由来は礼拝に参じるのに道中獣などから身を守るため携帯していた武器類を仮置きする場所(玄関ホールの役割)が必要だったことからきています。すべての工事が手作業であったため校木の長さは6メートルから8メートルが限界で、その接続は南側の長方面は武器庫、北側の長方面は牧師室のそれぞれ接する壁の間でおこなわれていました。また壁を積み上げただけの脆弱な躯体で屋根架構の大きなものも不可能でした。したがって長い壁と高い天井の建設は困難という課題がありました。【図2参照】 【図2】 *注1)丸太組積造の祖型はヴァイキング時代に遡るとされ(ヘルシンキのセウラサーリ野外博物館に近い例が存在)、躯体は校木(あぜき:松材丸太の両面を削ぎ加工したもの)を井桁状に積み上げ、屋根は妻壁間に母屋材を渡し、その上に屋根板を葺いたもの(母屋組屋根)だった。しかしこの構法は校木を延長して長い壁をつくることは難しく、よって二つの建物を離して建て、その間に丸太を落とし込んだ壁を設けて一棟とした。【図3,図4参照】 【図3】 【図4】 中世ヨーロッパ文化圏に帰する石造教会: 12世紀から13世紀のフィンランドはノヴゴロド(露西亜・ギリシャ正教)の勢力に悩まされる情勢にありましたが、エリック9世(瑞典王)の遠征に始まる長期のスウェーデン側の攻勢によって後退させられ、やがて文化圏としての境界線が確定していきます。このことがフィンランドのキリスト教文化の広まりと根付きを促し、14世紀・15世の中世ヨーロッパ文化圏に帰する歴史的な発展に繋がる要因となりました。こうした歴史的過程によって、これまで石造建築の文化がなかったフィンランドに教会という施設を通じて石造技術がもたらされていくことになります。司教座の指導のもと建築資材と共にデンマーク、スウェーデンからたくさんの石工がフィンランドに集められ、13世紀後半に石造教会の建設が始まります。中世石造教会の建設数は86棟(内54棟が現存)との研究結果があります。【図5参照】 【図5】 既にキリスト教が恒久的に根をおろしたフィンランドにおいて、教会は多くの会衆を収容する施設機能が求められるようになり、宗教改革がおこなわれた16世紀(中世末期)、グスタフ・ヴァーサ王の時代にはルター派教会が台頭してきます。ヴァーサ王はカトリック教会の領地を没収して王領地の拡大をはかると共にデンマークやロシアとの間で戦争を繰りひろげます。結果として戦略的城砦や城の建設が急務となり、石材も石工職人もそれに投入され、しだいに石造の教会は地元で調達できる木材を使った建築へと移っていくことになります。この必然性のなか「如何に木造で石造教会のような大空間をつくるか」が課題として浮上してきます。 石造教会に見られる大空間を木造構法で実現: 前述のとおりフィンランドでは初期の教会を建てるのに丸太組積造が用いられていましたが、この構法は校木を延長して長い壁をつくることは不可能であり、石造にみるような天井高のある一つの大空間はつくれません。そこで考案されたのが「箱柱式」*注2)の手法です。 16世紀の木造教会については遺構もなくあまりはっきりした建築状況はわかっていません。17世紀・18世紀に入ると箱柱式教会と箱柱の手法を用いない教会とが混在して建設されます。特に箱柱式については17世紀中頃以降から17世紀末までが最も盛んでした。17世紀に箱柱式で建設された教会の割合は5割強になります。16世紀末 スウェーデンではヴァーサ王から権力を継承したカール9世がルター派を国教としたため西欧各地にみられたような血みどろな宗教戦争は起こらず、勢力下のフィンランドも同様でした。よって17世紀に入ってから新たに建てられた木造は全てルター派の教会ということになります。 18世紀に入り箱柱式は急減していきますが、それは木造十字形教会の普及が理由と考えられます。普及の背景として、18世紀後半の教会では千人以上の収容を必要とする大規模空間が求められるようになったことなどがあげられます。【図6,図7,図8参照】 【図6】 【図7】 【図8】 十字型教会に受け継がれた技術: 17世紀はグスタフ2世から続く3世代の絶対王政が確立、スウェーデンがバルト海を制覇して文化・産業が大いに発展した繁栄の時代でした。しかしフィンランドは徴兵など戦争の影響を直に受け、また18世紀になるとロシアとの北方戦争で侵略を許し凶作も重なって人口が激減する停滞期となります。木造教会の現存数が少ない理由にはこのような歴史的背景があります。しかしながら、同世紀後半には回復に転じナショナリズムの高揚と文化的振興が促され、グスタフ3世の治世で華やかな宮廷文化の影響を受けての芸術活動が盛んとなり教会建設も目覚ましい進化を遂げていきます。 先の十字型教会の誕生は、そうしたスウェーデンがバルト海の覇者として君臨した時代の象徴でもある後期ルネサンス様式の巨大石造教会に倣い、フィンランドの工匠たちが継承してきた固有の木造技術の結晶によってつくりあげたものでした。その高く立ち上った礼拝堂の天井は、ドーム型を再現しながら柱は一本もなく、丸太組積造の壁と大きな屋根架構で構成されていました。箱柱そのものは廃れるものの、繋ぎ梁によって躯体を強固にする手法、箱柱式の技術は十字型教会へと受け継がれ、その後のフィンランドの木造教会に大きな影響を与えて行きました。【図9,図10,図11】 【図9】 【図10】 【図11】 *注2)校木の接続、延長に重要なアイディアがあり、長手方向の壁には校木を積み上げた空の箱状の柱が配され、その中で壁の校木を延長して構成する。その際、箱状の柱は3対ほど設けられる。すなわち短い校木でも(手作業で加工できる範囲の長さでも)箱柱を経由することで長い壁を可能にする点が要諦である。箱柱の室内側頂部では妻側方向、平側方向と校木の二段重ね、三段重ねの繋ぎ梁で結び強固な躯体を造り上げ、大きなA型の屋根架構を載せることに成功した。特に平側方向の繋ぎ梁によって屋根架構の施工を容易にし、同時に高いゴシック風のヴォールト天井を可能にした。このアイディアは古くからフィンランドの舟小屋や木造橋にみられる伝統的な技術を発展させたものある。17世紀・18世紀を通して105棟が建設されたが12棟しか現存していない。理由は本文にて説明のとおり。当時の人口から推定して決して少ない数ではなかった。盛んだった17世紀には木造教会の5割がこの構法で建てられている。ボスニア湾沿岸の西海岸を中心したエリアに多い。1688年建設のトルニオ教会、1700年建設のクリスティーナンカウプキン教会にその典型をみることができる。同時代のスウェーデン、ノルウェーの木造教会にこの構法はみられずフィンランド固有の技術である。【図12,図13,図14,図15参照】 【図12】 【図13】 【図14】 【図15】 個性豊かなフィンランド木造教会の終焉: ナポレオン時代の動乱期から19世紀の初めになって、フィンランドは複雑な欧州の国際政治の渦中へと巻き込まれて行きます。ロシア軍の侵攻でスウェーデンは降伏し、1809年にフィンランド全土はロシアに割譲され、エリック9世の遠征から650年以上続いたスウェーデン圏の時代が終わります。露国の支配下で自治領となったフィンランドは小国としての歴史を辿り、そうしたなかで木造教会もロシア皇帝の命を受けて新古典主義様式へと統制され、その建設に関してはすべて中央政権下でおこなわれることになって行きます。ここにその個性豊かなフィンランド固有の木造教会建設の歴史は終焉を迎えます。 参加者からの質問において: Q. フィンランドの木造教会が身近に入手できる建築材料だけで建設された背景には、伝統的な固有の技術伝承のほかにカトリック以前の北欧神話といったものの影響、キリスト教以外の宗教観が反映されていたと考えられるところはあるか? 民族信仰、自然崇拝、畏敬の念などとの関係から考察されるべき要素はあるか? 資源の有効活用の観点から推測して工匠たちの意識下に垣間見える価値観は? 例えばスウェーデンでみられる空洞状態に加工した円筒型柱の実例にあるように資源の有効活用という点で、その構法との間には強い関係があると思われるが、その点はどうか? ⇒ 宗教の観点からの質問を通じては、建築空間の創造にどのように繋がっていったか、また反映をみたか、新たな研究テーマとしての意味を覚えます。 ⇒資源有効活用の質問を通じては、校木の寸法や箱柱の大きさが決して均一にはない事実が、分担作業の結果という点はあるにせよ、工匠たちが材料としてあるものの大きさや長さを出来るだけ有効活用できる状態で使用した点も推測できることから、多分に関連はあると考えられます。自然との係わりにおいても部材の有効活用という価値観が工匠の意識下にあり、豊かな資源(樹木)を与えてくれる自然の恩恵に対する感謝の念に繋がっていたとも想像できます。【図16参照】 【図16】 以上. *注)本講演レポートの作成にあたっては、文脈における内容を理解しやすく補足する必要などから竹内晧先生の著書「フィンランドの木造教会」を参考に、また一部を引用によって補完させて頂きました。 (文責:企画委員 青柳一壽)
by sadiinfo
| 2012-05-31 20:16
| 講演会
|
ファン申請 |
||